真昼の丑三つ時【日記】
その日は何気なくから始まった。
朝起きて、虫刺されが気になりわきの下を掻いたときに、指先に小さなしこりを感じた。
今まで全く気が付かなかったが、確かにコリコリとした小さな丸いものがある。
脳裏に不安が過る。
旦那に相談すると、気になるくらいなら病院へ行った方がいいとのこと。それもそうだ。
私は午後の診療の予約を取ると、時間になるのを待って電車で30分ほどのところにある、乳腺外来の病院へ向かった。
そこの病院へ向かうにはJRを使うと近いのだが、私は最寄りが私鉄なため、駅を降りて20分ほど歩くルートを選んだ。
季節は初夏。
病院近くは住宅街で人気も多いのだが、私の降りた駅周辺は「墓地」「森」「神社」しかなく、人気も少なく、時折気の早いセミの声が聞こえてくる。
時刻は夕方。
夏とはいえ、ほのかに薄暗くなりつつあるが、私は森に囲まれた神社の前を抜けていく道を選び、足早に坂を上っていた。
普段からヘッドフォンをして外を歩いている私だが、こうした道では後ろから誰かに襲われるかわからないので、音量も絞り、時折鳴くセミの声が耳に入るくらいにして歩いていた。
「ミーン……ミーン……エェ……」
「キノ……ミーン……エェ……ミーン……」
セミの声が音楽に混ざって聞こえる。
「ミーン……ミーン……エェ……」
「キノ……ミーン……エェ……ミーン……」
だが、何かがおかしい。
明らかに、セミの声とも私のMP3とも違う音が混ざっている。
「ミーン……キノシタ……ミーン……サチエェェ……」
気が付いたときは、その音……声は私のすぐ隣から聞こえていた。
丁度通りかかっていた神社の真ん前。
下を向いて歩いていた私の視界から外されていたそこに、「木下幸枝」さんがいたのだ。
暗い森に囲まれた鳥居の前で、ざんばらの白髪を振り乱し、
「木下幸枝」と絶叫し続ける老婆。
どこの病院から抜け出してきたのか、簡素な入院着の足元は裸足だ。
濁った眼で私を凝視し、
「木下幸枝」と叫ぶ老婆はひたひたと私に向かって走り出していたのだ。
やってしまったと思った。
日ごろ、神社から「あっちの世界」へ迷い込んでしまうような物語を書いているから、私自身が入り込んでしまったのだと思った。
BCCKS / ブックス - 『怪談千夜~かいだんせんや~』川島千夜著
それとも、まだ日が出ている内だと思っていたが、丑の刻参りに遭遇してしまったのだろうか。
それとも、「木下幸枝」とは、実は嫌いな相手の名前かもしれない。
この老婆は、誰かを呪い殺そうとしていて、うっかり通りかかってしまった私を見つけ取り殺そうとしているのだろうか。この場合、うっかりなのは私ではなく、この老婆ではないだろうか。
この数行の思考が脳内を駆け巡る間に、老婆は「木下幸枝」と叫び続け、ガクガクとした足取りで、それでも思いのほか素早い動きで私に近づいてくる。
人間、本当に驚くととっさに動けなくなるものである。
近づく老婆。腰が抜けかける私。
あと数歩で老婆が私の腕を掴む――――その時。
「木下さん、ここにいたんですかぁ~」
甲高い、幼稚園の先生のような声の女の人と数人の男の人が現れ、わらわらと老婆を囲んだ。
「もー、探したんですよぉ」
「あー、裸足だったかっ。先生に連絡しておいてー」
「ほら、お車下にあるから一緒に行きましょう」
口々に優しい声が老婆にかかる。
呆然と立ち尽くす私の前で、木下幸枝おばあちゃんはあれよあれよという間にデイケアの方々に担がれ、今自分が通ってきた坂の下にある車に乗せられ、どこかへと行ってしまったのだ。
誰が思うであろう。
たった一人、薄暗い夕方の神社で、自らの名を叫び、襲い掛かろうとしてきた老婆を目撃し、
「もしかして老人ホームから逃げ出した痴呆老人かもしれない」
そう思えるほど、肝の座った人間はいったい何人いるであろうか。
今年の夏は暑い。
西日差し込む神社の前で、私はぼんやりと鳥居を見上げていたのだった。
余談ですが、この後言った病院で、胸のしこりは「単なる脂肪の塊」という診断をいただいてまいりました。
※「木下幸枝」なる名は仮名です。実際は、あまりの驚きに帰宅したころには、お名前自体すっかり忘れていました※